まなみさん理論~Who's bad?~
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曲を作ろうという気が全く湧いてこない。
もう、よくないですか?(n回目) ただ「未完成」で終わっているがポテンシャルのある曲のドラフトみたいなのは一億件くらいあるので、そこを拾って完成させるみたいな試みはしてみても面白いのかもしれない。
曲を作ることに一切の意味を見出だせない。ちょうど大海に水一滴を注ぐことに意味を見出だせないように。音楽はとうに氾濫している。代わりがきくとかいうレベルではなく、ベルトコンベアで流れては去っていくものになっている。
それがたまたま(あるいは狙い通り)誰かの心を打つとか、誰かの人生に強く刻み込まれるようなことはあるのだろう。ちょうど私にとっての『潜る、潜る、』や『生放送』がそうであるように。
だからといって、ほとんどの場合それは投稿者のわたしには感知出来ないものだし、仮に出来たとしても正直心揺さぶられる気がしないし満足につながる気もしない。というか実際にそうなっていない。なる人にとっては意味になるのだろうけど、わたしにとってはそうではなかった。
今見たら『潜る、潜る、』って14年経って2000再生しかされてないのか。末恐ろしい話だ。マイナーだとは思っていたがこのレベルか。私から見ても何一つ欠点がないけどな、この曲。そんで「インスト曲で歌ってみた」は359再生。ヤバすぎる。
なんだかなぁ。なんだかなぁ~~~~~。音楽そのものへの信頼がとんとなくなってきたという方が正しいのかもしれない。
たとえば……1000人が大馬鹿者の村で、たった1人の常識人を見つけたがためにその村全体の信頼が回復するだろうか、ひいてはその村全体を好きになるだろうか。これはそういう話です。稀な好きな音楽との遭遇は私にとって音楽全体を肯定することにはつながらない。
私の中では、ざっくらばんに言って音楽という村は死んでいる。あとは残滓や稀な生存者と戯れるしかない。……大言壮語かもしれない。少なくとも、私が今まで浸ってきた「音楽」、つまりボカロシーンであったりポップミュージックという範囲ではもう飽き尽くした。これ以上得られるものがなにもない状態に限りなく近い。
いま音楽で得るものがあるとすればほとんど「ハイプ」であり、そんなことなら一次創作である必要がまったくなくSoshuのデルタルーンアレンジを一生聴いてればいいわけで。自分で作る必要すらない。
そんなわけでわたしは今後「作曲家indigo2」への社会的期待やら要請を無視する必要があるのだが、これがなかなか難しい。まず無視する行為そのものに発生するコストのようなものがあるし、視点を逆転させて考えてみると、わたしなら「漫画力」に惚れた作家がいきなり何年もゲームを作り始めたり、音楽性に惚れた作曲家がVRChatに何年も入り浸ってそこで勝手に自己実現を果たしていたら、少なからずガッカリするからだ。
そこに倫理的責任を問うような姿勢はまったくないにせよ、ガッカリするという事実は残る。わたしに適合しない効用(らしきもの)ばかりを生成し、わたしの実りとなるコンテンツを提供しなくなったということだから、それはコンテンツとしての死に等しい。
また、倫理的責任は問えずともメリトクラシー的にはどうなんだという言い方も出来る。ある要素でウケた人間は、その能力が少なからずすぐれていたから結果を得たわけで、下手の横好きでまるで無関係なジャンルをやっていても全体の効用は下がるばかりではないか。まなみさん理論みたいな話に持ち込むこともできるだろう。
涼さん。わたし、最近
こんな風に思うんです自分のやりたいことをするより、
誰かに認められることをする方が……じつは、大切なんじゃないかって
たとえ、わたしがどんなにやりたいって
思ってても……それが、他の人にとって、
なんの役にも立たないなら……結局、自分も周りも不幸になってしまうと
思うんですそれよりは、自分がやることで、誰かが
よろこぶことをしてあげたい……わたし、今……とても幸せなんです
涼さんが、ファンの子によろこばれて
うれしい気持ち、とてもよくわかります多分、それ以上のよろこびって
どこにもないんじゃないでしょうか?……涼さん、忘れないでください
夢を追うのが幸せにつながることも
ありますけど……夢をあきらめることが、
幸せにつながることもあるって
無論これらは相当勝手というか消費者目線甚だしい言い分だが、事実として好きなアーティストが方向転換をしたらガッカリする人は多いだろう。むしろ知覚を理性で整理するという営みが必要になる。この場合、ガッカリしたという知覚を「人それぞれの人生がある」とか「本人がやりたいことをやるのが一番」とか、そういうリアプレイザルを頑張ってやって折り合いをつけることになる。しかしそこまで予見できるわたしにとっては、これが私の決断のせいで世界の何処かで発生すること自体が一種のストレスである。
また、わたしとしても、まなみさん理論には一考の余地があると常日頃考えている。死の淵(deathbed)に立った患者が揃っていう言葉の一つに「他人に期待される人生を生きるのではなく、自分が望むような生き方を貫けばよかった」というものがあるが、これらは必ずしも相反するものではないし、どちらも曖昧模糊としているというのが直感だ。「自分が望む生き方」は、少なくとも浮動的であり、固定されていないばかりか存在すら怪しいことがある。
前提として、「他人に期待される人生=自分が望む生き方」の一致構造が出来るに越したことはない。そうなると、「他人の期待」の方を「自分が望む生き方」へと捻じ曲げるのは相当に難しい。完全に達成できた人間は米津玄師くらいしか知らない。では「自分が望む生き方」を「他人の期待」にmoldする方が筋が良いように思われる。これは自分が望む生き方に反して生きるのではなく、望む生き方の形そのものを自己暗示や洗脳によって変えてしまうということだ。こっちの方がプラグマティックであるようには思える。
まなみさんの発言も、見方次第では「夢に失敗し、諦めた人間が、自己正当化のために自己暗示を繰り返している」と捉えられなくもない。が、端的に言ってそれが悪いこととも思えない。米津玄師や養老孟司によれば、「自分らしさ」を規定する審判者とは他人にほかならないのだから、自分が自分らしくあるというのはメタモンにメタモンらしくあれと命じているのとあまり変わらない。
人に生かされていることを思い出すべきだ。誰かまわりに人がいなければ生きていけない。心象の穴ぼっこを、目の届かないところにあるじめじめした憂いを、「本当の自分」と考えて、「皆自分のことを知らないんだ」なんて嘆くな。あなたのことを知っているのは、あなたじゃない誰かだ。「本当の自分」なんてのは、自分で決めるものではないでしょう。あなたがどれだけ何かを隠していようと、回りの人間は「隠しているあなた」を本当として付き合っている。あなたが思っている「本当の自分」なんてものはどこにもいない。(米津玄師)
極めて根拠がないんですよ。「自分の生きる意味は自分のなかにある」という考え方は。「自己実現」などといいますが、自分が何かを実現する場は外部にしか存在しない。より噛み砕いていえば、人生の意味は自分だけで完結するものではなく、常に周囲の人、社会との関係から生まれる、ということです。とすれば、日常生活において、意味を見出せる場は、まさに共同体でしかない。(養老孟司)
一方で、自己が規定されていないからこそ「いま作曲家としての自認がない」からといってただちに作曲家を永劫に引退しなければならないわけではないだろう。
「作曲家」という役割(ロール)を生きることを一旦休止し、「一人の人間」として生きる時間を取り戻す、というリフレッシュにはまさしく宇多田ヒカルが「人間活動」を名目に実に6年近く活動を停止していたという実例がある。
結果復帰後の音楽は、少なくとも私視点ではひたすら洗練され良くなっていたので技術的な錆びつきも、整備次第だが、気にしなくてよいだろう。
しかし好き勝手に引退と復帰を繰り返せるような称号とも思えない。この点に関してはすでに5年前の記事で論じている。
「音楽をやめる」の定義ってなんだろう。はっきり言って、一度作曲に手を出した者が、ある地点から「生涯」一切作らなくなるというのは不可能に近いと思う。あんなにきれいな幕引きをした倉橋ヨエコでさえ、衝動に抗えなかったんだから。だから5年とか10年とか期間があくことはあっても、人はぜったいに「創り続ける」んですよ。そういう意味では、音楽は不滅だ。
とはいえ、10年に1曲しか出さないような人が「アーティスト」として見做されることはまずない。よって、ここで俺が定義します。
・3年以上新たな曲をまったく制作していない
・8年以上新たな曲を公開していない
上記のうちどちらか、あるいは両方を満たした者は、音楽をやめたとみなしてよい
3年という数字は絶妙だと思う。(…)
音楽をやめるということ
この定義によれば私はまだ全然セーフだ。
しかしやはりこれも本題からズレた議論になる。やめるかどうかはどうでもよくて、「今やりたいこと」が別にあるという前提がないと「どう自分を規定されたいか」は成立しない。そもそも「やりたいこと」がない場合、あるいは「やりたいこと」が社会的要請に応えたい(俗っぽく言えば、認められたい・ちやほやされたいという承認欲求)の変形の現れでしかないのであれば、作曲という疲弊を回避しても別の疲弊に行き当たるだけのように思われる。
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